武田信玄上洛の道 天竜川を扼した大島城
▲大島城全景
戦国時代の甲斐は農業の生産性が低く貧しい国でした。現在の主要産業の一つがワイン作りであるように、元々米作りには適さない環境であり、新田開発という多くの戦国大名が進めた農業政策を、信玄にはやりようがなかったのです。弱肉強食の時代に生きなければならなかった信玄が採った策は、侵略を前提とした膨張主義でした。それこそが正しく武田信玄を戦国の雄にたらしめた理由なのです。山梨の人が聞けば怒ると思いますが、平気で条約を破っては侵攻を繰り返す信玄を、信義に生きた上杉謙信が忌み嫌ったのは、尤もことなのです。
信濃のほぼ全域を支配下に入れた信玄が、更なる西進と南下を視野に入れていました。甲斐駒を駆って機動性を有する武田軍は、敵に動きを読まれないようにするため、複数のルートによって戦争を繰り広げました。南下に際しても、多くのルートを使っていますが、その一つである伊那谷を通るルートは比較的広い盆地を経由するだけでなく、その真ん中を南流する天竜川を利用できることで、兵站を確保する上で、信玄が特に重視したものでした。その伊那谷をゆっくりと流れ下る天竜川の行く手を遮るように立ちはだかる台地上に作られたのが大島城(長野県松川町)です。城の真下には船着場があったとのことで、上流から物資が送られてきたものと思われますが、今はなんの痕跡もありません。
当初の築城目的は遠江侵攻のための繋ぎの城でしたが、信玄が天下を狙った時のルートとして拠点化するために武田流築城術の粋を集めて堅城として整備されました。城郭関係の研究書を広げると、その防御のための技巧の点で、正しく戦国の堅城と解説されています。これを見たいと思い、長野市周辺の城を見学した後、伊那谷を通る飯田線沿いに南下して、信玄が辿った道を車窓から左右に眺めながら、大島城に向かいました。
山吹駅という優雅な名前の無人駅で下車して、その東を流れる天竜川に向かって歩き始めました。現在、城跡は台公園として整備されています。城跡がある台地の下を一旦通り過ぎるようにして東に向かった後、スイッチバックのように再び西に向かう坂道を登りました。最初に目にしたのが、武田流築城術の特徴である丸馬出し、それもとびきり大きなものでした。添付した写真では、藪と化していることもあり、全体像はなかなかご理解いただけないでしょうが、円弧の最も外側の部分は長さにして約百米ありますから、その中の空堀の幅もゆうに30米近くあります。その幅からして、鉄砲での戦いを念頭に置いたものであり、時代の緊張感が直に感じられる光景です。
城跡にある台公園の駐車場に入って行くと、軽トラの傍に地元の方がおられたので、若干の説明を戴きました。ボランティアで公園の整備をされているとのことで、その後、公園内のゴミを拾う等されていました。それにしても、私が出向く城跡では、地元の人に出会うこと自体も稀で、ましてや観光客と遭遇したことは一度もありません。この恐ろしくマイナーな楽しみが、いたく気に入っています。尤も、お花見シーズンと青春18切符の使用時期が重なっていたら、こんなにのんびりとは見学出来なかった筈ですが。なお、城跡を公園とした所では、公園としての施設案内の掲示が殆どで、城跡の説明板が稀にある程度ですが、ここでは滅多に見られない詳細な縄張り図を掲示していました。城郭探訪ファンにはたまらないので撮影して来ました。
巨大な丸馬出しに感嘆した後、城内に入りました。城内の空堀も、これまた巨大で戦国末期の発達した築城技術を肌で感じました。この馬出しというのは、初めて聞く方は、競馬場にあるような出走ゲートが設けられていたのかと思うようですが、城に立て籠もった時に反撃の拠点となる施設のことです。
たんに城に立て籠もっていると敵も攻めあぐねますが、籠城側もただ城に籠ったきりで動きようがありません。兵糧攻めをされたら、為す術もなく何れ降参しなければなりません。そこで考え出されたのが、馬出しです。包囲した敵から見えないように馬出しの前面を柵か土塁にして籠城側はそこに兵を隠し、タイミングを見計らって左右から一挙に出撃して敵に打撃を与えたら、すぐ戻るという戦闘行動を取ります。なお、ここを敵に占拠された場合、城内に近い馬出しの縁には何も設けていないので、侵入した敵は身を隠すことも出来ずに、城内から射すくめられることになります。こうした馬出しは、だいぶ以前は、西洋にはなく日本にしかないものだと言われていた時代があったようですが、イギリスにはケルト人が紀元前300年頃に作った城に明瞭に馬出しの跡が残っているとのことで、古今東西、人間の考えることは、そう違わないようです。
この大島城を特徴づけるのは、前述の丸馬出しが城の前面を守っているとしたら、その北側に隠れるように伏兵廓を設けていることです。武田流築城の常として存在する丸馬出しに敵の注意警戒が集中しているとき、更にその横合いから攻め掛ることを念頭に置いたものなのです。実戦になっていたら、どんな戦いが展開されたことでしょうか。興味は尽きません。
しかし、織田信忠率いる織田軍主力が武田領西方の美濃から侵攻して高遠城を陥落させ、更に伊那谷の北方にある鳥居峠を占拠し諏訪湖に達すると、大島城は孤立してしまいました。既に武田氏の姻戚である木曽氏の離反が知れ渡っています。籠城しても後詰(救援)が来ないと知った在地土豪は次々と離反し、織田が大軍を擁していることもあって、大島城主武田信廉(信玄の異母弟)は戦わずして甲府に逃亡してしまいます。伊那谷を遠江から侵攻してくる敵に備えていた堅城でしたが、あろうことか後方を絶たれたことにより、呆気なく自壊してしまいました。伊那谷を抑えていたが故に、退路となる谷を塞がれて命運を絶たれたのです。武田勝頼が自刃した後、信廉も残党狩りで捕えられ、大島城放棄からひと月もしないうちに、処刑されています。信廉は信玄そっくりの容貌だったと伝えられ、一時は影武者を務めたとさえ言われています。
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