徳川家康VS上杉景勝 東西対決はここで起こる筈だった!
その1
城巡りの交通手段は、大半が青春18切符ですが、見たい城がいつも駅の近傍(駅から路線バスで辿り着ける範囲)にあるとは限りません。あるスキーシーズンに、ちょっとした弾み(推定)で大腿骨を骨折してしまい、毎年4月に実施していた高校同窓会企画の城郭探訪は中止しました。しかし、桜の便りが聞かれる頃には自然治癒にて完治してしまい、早々に計画を中止したことを後悔することになりました。
その穴埋めとして、この企画の常連に声を掛けて、鉄道路線から離れた所にある城を訪ねる計画を立てました。禍転じて福と為す(どさくさに紛れて都合よく振舞う)、という次第です。メンバーは、出版社を経営されている啄木研究家とその右腕の敏腕編集者、ベテランの女流時代小説家と女流洋画家という生涯現役を貫こうとしている元気な皆さんです。行先は、栃木県北部から福島県の南の県境までの旧奥州街道の道筋で、徳川家康と上杉景勝が雌雄を決する戦場になる筈だった所です。「なる筈だった」というのは、石田三成の挙兵によって、家康が率いて来た東軍が反転したために戦いは起こらなかったからです。
関が原の戦いは、石田三成と直江兼続が連携して徳川家康に対抗したとも言う説もありますが、この時の二人の動向を見る限り、両者の連携はなかったと思われます。三成挙兵の報に接して反転した東軍を上杉勢は追撃していませんし、三成は東軍と上杉軍が戦火を交える前に兵を挙げています。家康と景勝が実際に戦火を交えた後に三成が兵を挙げていたとしたら、家康は二正面作戦を強いられ、簡単には大坂に戻れません。というのは、いくさが始まってから反転したならば、セオリーに従って、上杉勢は南下して行く東軍を追撃する可能性があるため、簡単には反転出来ないのです。追撃戦こそ戦果を上げる最善のいくさだ、というのが今も戦場の常識です。
好例として、信長の浅井・朝倉攻めが挙げられます。信長が小谷城に立て籠もる浅井長政を攻めた時、援軍としてやって来た朝倉勢の一部が籠る前線の城を風雨に乗じて奪い取ると、信長は籠城していた城兵をすぐに逃がしてやります。風雨と言う状況下に、前線にいる筈の500の兵が突然朝倉義景の本陣に戻ったことで、朝倉勢は動揺します。しかも、朝倉方の武将の寝返りがあったばかりです。そこを逃がしてやった朝倉勢を追うようにして信長が攻めて来ると、前線が崩壊したと錯覚した朝倉側の兵は我先にと逃げ出しました。これを約80Kmにわたって織田勢は追撃して朝倉勢に壊滅的な損害を与えます。こうして前線にあった砦が落ちたことをきっかけに、その8日後には、一乗谷に京風の文化を誇った朝倉氏は滅亡してしまいます。追われる軍勢は、よほど確かな殿を務める武将と兵がいない限り、大きな損害を受けるのです。連合していた朝倉氏が滅んだために、その1か月後には、浅井長政も小谷城で自刃して浅井氏も滅びます。
秀吉亡き後、着々と足場を固めていた家康に公然と異を唱えた上杉景勝を屈服させるため、家康は周到な準備をした上で、秀頼の命による上杉討伐と言う大義名分を掲げて、会津に向けて大坂を発つことにしました。滅亡した小田原北条氏の領国をそっくり支配していた家康ですが、そこから先、上杉景勝の居城会津若松までは支配下にありません。天下人秀頼の命ということで、その権威を利用して家康主導により、そのルート上にある城の拠点化を図ります。
江戸から会津若松に向かう道筋には、配下の本多正純の居城小山城、東軍に属する蒲生秀行が治める宇都宮城があり、更にその先には那須一族が支配する大田原城、そして黒羽城があります。最前線に最も近い黒羽城は上杉景勝の領国の最南端から、直線にして25Kmしか離れていません。ある程度の規模があった大田原城にも手を加えたかもしれませんが、館に過ぎない小規模な黒羽城を、家康は普請奉行を派遣して、短期間のうちに巨大な堅城に作り替えさせました。黒羽城は、この改修で大きく広げられ、本丸は深い空堀に囲まれた強固な城に生まれ変わったのです。
工事が始まったのは、家康が大坂を発つ3か月以上も前のことです。一方の景勝はそれを真っ向から受けて立つために、白河南方の皮籠原に長城ともいうべき陣地を野戦築城しました。こうして歴史の表舞台に立つ筈だった黒羽城と皮籠原の長城でしたが、三成の挙兵により、戦場にはなりませんでした。旧奥州街道の道筋にある黒羽城は、奥の細道にも登場する山間の小さな城下町の中にあり、皮籠原の長城も崩れ落ちた土塁とほぼ埋まりかけた空堀が残るだけです。これらの城を訪ねるのが、今回の旅の目的でした。
その2
訪れた黒羽城で驚かされるのは、本丸を囲む巨大な空堀です。比高差は15m前後、しかも本丸側は急峻な斜面となっており、難攻不落と言えます。現地の説明では、上杉氏への備えの為に修復されたとなっていましたが、誰が修復したとは書かれていませんでした。写真を見たらお分かり戴けるように、山間の小領主大関氏が単独で短期間のうちに、作りおおせる代物ではありません。家康の強い指示の下に、城普請に関わる大勢の者を動員して築城された証であり、秀吉亡き後の政治的緊張が肌で感じられる城です。城域は那珂川と松葉川に挟まれた隘路全体に広がっており、城内を旧奥州街道が通っています。ここが対上杉戦の作戦基地であると共に、上杉勢が南下しようとすれば、それを阻止するための城だったことが分かります。こうして周到な準備をしたところで、家康は上杉討伐の軍勢を率いて、大坂を発ったのです。
石田三成挙兵の報を聞いて東軍は反転しますが、上杉勢が追撃して来る可能性が十分に予測されることから、下総山崎(千葉県野田市)に所領を与えられていた岡部長盛が、守将として黒羽城に残りました。元の城主大関氏は家康に人質を差し出した上で、本丸に入った岡部長盛を守るように、外廓に配置されます。これは戦国時代に常用された方法で、徳川の家臣でない在地領主大関氏を離反させないための措置です。それから約1年間、上杉景勝が詫びを入れて和議が成るまで、徳川勢は黒羽城に留まりました。その後、この強固な城は、わずか1万5千石の大関氏の居城として明治まで続くことになります。
この時の守将岡部長盛は、大坂の陣の前に明智光秀の居城だった亀山城に移され、今度は対豊臣家包囲網の一翼を担うことになります。常に最前線の城を任された信頼のおける人物だったといえます。なお岡部長盛の係累(叔父又は兄?)である岡部元信も、戦国の籠城戦に二度も登場する人物で、一族で似たような役割を演じています。
信長が天下に名を轟かした桶狭間の戦いにおいて、戦いのきっかけとなったのが、今川方の鳴海城でした。この城と近くの大高城を信長が包囲したことで、後詰(城の包囲を解く)のために今川義元は出陣して来ました。信長が包囲網を敷いていた城のうち、今川勢は二つの砦を簡単に落としますが、後詰の織田勢は現れません。大軍の今川勢の進攻に恐れをなして、後詰は来ないと判断して寛いでいるところを襲われて、義元は討ち取られるのです。この時の鳴海城の守将が岡部元信でした。元を使った名にしていることから、義元の有力家臣だったことが分かります。戦後、義元の首を貰い受けることを条件に、整斉として鳴海城を明け渡したことで名前を知られることになります。今川氏の滅亡後は、武田家に仕えます。その後、信玄がなしえなかった遠江の高天神城(静岡県掛川市)を勝頼が落とすと、そこの城将に任じられ、再び歴史の舞台に登場しました。
設楽が原の戦いで武田氏の勢力が弱まると、家康は奪われていた遠江の城の奪還を開始しますが、最後まで残ったのが、岡部元信が守る高天神城でした。ただ、最後まで死守したというよりは、元信は降伏を求めるものの拒絶されているのです。兵糧が尽きたところで最後は城から討って出て、元信以下の大半の兵が討ち死にしています。信長は、高天神城を勝頼が後詰も出さずに見殺しにしたことを演出したのです。これで勝頼の声望は一挙に下がり、家臣、領民が勝頼を見放すことになります。それほど、後詰というのは、大名と家臣又は同盟者との間で交わされた大切な約束事だったのです。
その日の城巡りの最後を締めくくったのは、どうしても見たかった白河の関でした。近くまで車を進めてもそれらしい所は見つからず、通りがかりの人に尋ねたら、目の前の角を曲がった処にあるとのこと。辿り着くと、小さな森にしか見えませんでしたが、白河の関を神域とする白河神社の中へ入って行くと、漂っている荘厳な雰囲気に思わず身が引き締まりました。同行したみなさんも、そう感じたと後で言っていました。
それにしても、敢えてここを通らなくても奥州へ通じる道はいくらでもあると思うのは開発が進んで至る所に道路がある現代だから言えることで、当時の奥州街道は、未開の原生林を通り抜ける道でした。その道を遮るように設けられた関所は、そこから先は朝廷の権威が及ばない蝦夷の土地であることを象徴するものだったのです。
白河の関のずっと東、福島県いわき市にある国宝白水阿弥陀堂は、在地領主岩城氏に輿入れした娘のために、父親である奥州藤原氏の隆盛を築いた藤原清衡が建立したものです。近くには勿来の関があります。つまり、白河の関と勿来の関を繋ぐ線の以北は、蝦夷の流れを汲む奥州藤原氏の勢力圏内だという認識があったと推定されます。白水は泉という字を分けたものであり、いわき市を構成する旧平市の 「たいら」は平泉の平を示唆しています。したがって、福島県以北を陸奥として一くくりにすることは、大雑把とはいえないのです。その全てが奥州藤原氏の支配下にあった時代があったのです。秋田にあった湊を拠点として、藤原氏は大陸とも交易しており、頼朝がどんなことがあっても強奪したかった富があったのです。
その日の泊まりは、紫式部ゆかりの猫啼温泉(福島県石川郡石川町)。今回のツァーの主力は妙齢の方々だけに、必然の選択でした(?)。翌日目指したのは、もう一つの目的地、白河市中心部の南にある皮籠原の長城でした。
上杉景勝が東軍との対決の場として選んだ皮籠原の地に築いた長城は、山越えして下って来た奥州街道の道筋が平地に降りて来てすぐの所にあり、細長い盆地の南縁に沿うように東西約3Kmにわたって築かれました。景勝の陣の背後は、軍勢を自由に行動させるだけの広さのある平坦な地勢になっている上に、その後方の小高い山にも陣地を構築(小丸山陣地)していました。更に、その後方には小峰城(白河城)があり、三段に及ぶ陣地と城で東軍を待ち構えていたのです。
一方の東軍は、迂回行動を取らないとしたら、峠を降りた狭い場所に兵を展開せざるを得ず、小部隊のままで突撃しなければならない地勢になっています。しかも、上杉方は長城の東側、戦場に想定した所から見えない山に築いた城にも軍勢を配置していました。この軍勢は、上杉軍が勝機と見るや、東軍の背後に回って正面の軍勢と共に挟撃するつもりだったと容易に推測できます。勿論、家康は敵情を偵察させてから攻める筈ですから、上杉景勝と直江兼続が描いた通りのシナリオでいくさが推移する筈はありません。しかしそれにしても、三成が史実に残されたタイミングで挙兵しなかったとしたら、どのようないくさが展開され、その後家康は権力を握る為にどのような手段を講じたか、興味は尽きることがありません。
東軍が去った後、上杉勢は追撃しませんでした。上杉勢はそこから兵を引くと、直江兼続が治める米沢領の北、最上義光の居城山形城を攻略するための作戦を発動し、長谷堂城の戦いへと続くことになります。東軍を追撃する行動に出なかったのは、時代の流れを読み切れず、戦国時代の考えのまま、大名は自分の領国の経営に力を注げばよいと思っていたのではないか、とも考えられますが、真相は不明です。あるいは、黒羽城が存在することで、そこでの城攻めによる消耗戦を恐れたかもしれません。
家康への敵対行動により、会津若松を拠点に進めようとした景勝の領国経営は頓挫し、上杉氏は米沢盆地に押し込まれたまま明治を迎えます。