信長が仕掛けた罠 設楽が原の戦い
▲合戦場南方部(左連合軍陣地、右武田軍展開地)
2千丁の鉄砲の三段撃ちとか、馬防柵で有名な設楽が原の戦いは、武田軍に包囲された長篠城を救援に来た織田・徳川連合軍と武田軍が戦ったもので、典型的な後詰決戦(包囲した城を救援に来た軍勢と城攻めをしている軍勢との戦い)といわれるものでした。しかし、長篠城に包囲された奥平信昌を救援に来た筈の信長は、その手前で軍を止めると、陣地を作って立て籠もるという奇妙な行動を取りました。それが武田勝頼に仕掛けた罠だったのです。
初めて設楽が原古戦場に立った時に感じたのは、その狭さでした。両軍が合戦時に対峙した前線を左右に見ながら歩いて行くと、その間は一番狭い所では100mほどしかありません。戦闘は両軍が見守る中で、日中一杯かけて繰り広げられたのです。
当時の水田は区画整理もされず、河川も治水工事もされていません。季節は梅雨時(新暦の6月末)ですから、戦場一帯は泥田だったようです。戦闘は泥濘の中、武田勢は一歩一歩泥に足を取られながら攻めかかったのです。騎馬武者が走れるような戦場ではありません。黒沢映画「影武者」の戦闘場面のように、騎馬に乗った武士が柵に突っ込んでは鉄砲で撃たれるということは、泥田では起こりえないのです。
しかも当時、騎馬武者が敵陣に突撃するという戦法は、日本にはありませんでした。明治になって、初めて日本は騎兵隊の編成を外国から学んで始めなければならなかったことでも分かります。また甲州馬が武田神社から発掘されて、現在、甲府城内に展示されていますが、この馬は肩幅があり足腰ががっちりしているものの、高さはポニー並みです。こんな馬に乗って突撃したら、槍どころか刀でも斬られてしまいます。武田勢の強さの秘密は、足腰のしっかりした甲州馬に乗って迅速に移動することであり、武田騎馬軍団の正体は、ポニーに乗って移動する歩兵部隊だったのです。
もう一つ、軍制の上からも、当時は騎兵隊が存在しないことが言えます。馬に乗ることが出来たのは、名のある武士だけです。彼らは武田信玄に忠誠を誓う家来であると共に、在地領主でもありました。武田家はまだ兵農分離が行われておらず、合戦ともなれば、騎乗できる武士が、普段は農耕に携わる家来を引き連れて戦うのであり、騎乗できる武士だけで編成される騎馬部隊が敵陣に突撃する、という戦が起こりえません。それでは、家来を残して主人だけが討ち死にしてしまいます。
また、馬防柵が効果的だったといわれていますが、当時、馬防柵を戦場に設けるのは当たり前のことで、そのために武田軍は爪の付いた縄を投げて、柵を引き倒して攻めています。武田軍を待ち構えていたのは、柵だけではなくて、柵を備えた土塁と空堀で構成された野戦築城の堅固な陣地だったのです。しかも添付した写真で見られるとおり、斜面を垂直に切り落とした切岸が、その堅固な陣地の背後に控えていました。その結果、武田勢は敵よりも少ない人数で城攻めを強いられてしまったのです。なお、鉄砲を保有していたのは織田軍だけではありません。同数とまではいきませんが、武田軍も鉄砲を装備していました。とっくに弓矢だけで戦う時代は終わっていたのです。
織田・徳川連合軍の数が少ないと武田方に誤判断させたのは、信長の策略の結果でした。長篠城救援にやって来た筈の信長・家康連合軍は、軍事行動(後詰)に出ないまま、長篠城から離れた地点に設けた陣地に籠ってしまいます。その陣地は、背後に主力を隠すには絶好の場所でした。信長は寡兵を装い、それ故に柵に頼って縮み上がっていると見せかけ、軍勢の実態を秘匿して武田勢が攻めかかるのを作為したのです。しかも見張りを厳重にして、武田方の斥候を近づけないように配慮していました。武田勢は、信玄の存命以来、ずっと織田信長との直接対決を望んでいました。その相手が寡兵と分かれば、戦いに向かうのは当然でした。
武田勢は開戦と同時に、次々と波状攻撃をかけます。武田軍の戦闘単位は、武将ごと、更にその下にぶら下がっている小領主が率いる自分の手勢でした。領主とその家来は、一歩一歩泥に足を取られながら、柵に向かって一団となって歩いて攻めていったのです。そして、柵に取りついた武田勢に向かって、織田方が銃を放ちます。そのような状況の中でも、武田方は、織田の兵は弱兵とみなしていました。鉄砲で撃たれて倒れながらも、次々に屍を乗り越えて柵に取りついて戦ったのです。
信長は戦線を維持するために、背後の山から次々に新手を繰り出し、破れそうになる柵に兵を集めて武田軍の攻撃を堪え続けます。柵はいたる所で破られては、新手が出て来て武田軍を追い返したと伝わっています。この戦いを描いた有名な屏風絵にあるように、攻め寄せて来た武田軍が一方的に鉄砲の餌食になった訳ではないのです。現に、柵に取りついて戦っている武田勢を描いた別の屏風絵の下絵が見つかっています。それが激戦であった証拠に、朝の6時に始まった戦いの決着がついたのは午後3時頃です。ワンサイドの戦いではなく、消耗戦が戦われたのです。
武田軍の攻撃のピークが過ぎたと見た信長は、兵を繰り出させて反撃に出ます。予備まで使い果たした武田勢は、その勢いを止めることはできませんでした。作戦の成功は、寡兵の弱兵が籠る陣地ならば、勝てると武田勢に思い込ませた信長の作為にあったのです。どうも自分たちの方が寡兵であったかもしれない、と武田方は途中で気付いたようです。しかし、戦いは激戦の真っ最中です。ここでの退却は追撃されて大損害を受けることは目に見えていました。兵の過多だけが、合戦の勝敗を決めることはないのです。劣勢でも彼らは戦い続け、戦いは破局まで進んでしまったのです。
結果的に、この戦いが武田家滅亡の序章になりましたが、この敗戦だけが破滅の理由ではありません。却ってこの戦いで、勝頼は信玄以来の重臣の重荷から解放されて、自分の考えで治世ができるようになったのです。兵農分離に着手できる可能性が高くなったともいえます。
この戦いの後、信長は諸大名に武田軍に勝ったことを盛んに吹聴する手紙を出しています。得意満面とは、このことでしょう。信玄以来、最強と謳われた武田軍に、弱兵との悪評が知れ渡っていた織田軍が勝ったのです。信長が自己PRに努めた気持ちは、十分に分かります。
武田勝頼が天目山で自害したのは、この7年後です。設楽が原で受けた痛手を癒すには、十分とは言えないまでも、必要な時間はあったのです。では、武田家滅亡の真の原因は何だったのか。それはある城の処分が誤ったことが、家臣や領民の離反に繋がったのです。その城とは、どこか。そのお話は次の機会に。
▲信長方切岸
▲徳川陣地から武田の陣を望む
▲武田方から望む徳川陣地
▲織田方切岸から望む丸山
▲徳川陣地から望む武田軍展開地