復元された中世の山城
▲高根城全景
町興しとして、実際には存在しなかった天守閣を建設した例はいくつもありますが、学術的な検討を経て、当時の山城の姿で復元されたのが高根城です。
信玄の領国拡大のための進撃路の一つが、飯田から天竜川沿いに南下する秋葉街道でした。狭い谷間を走る街道が信濃から遠江に入る隘路を押さえるように、城は街道の真上にある山上に作られています。単なる物見の城でその機能を十分に果たすと思われるくらい、急峻な頂の上にありますが、その技巧的な作りに目をみはりました。敵の進攻が予想される城の南側は、狭い頂上を二重に掘り切った空堀で守られており、こんな山の上でここまでするのか、という驚きがありました。
中世城郭がイメージだけでよく分からないという方は、是非訪れて下さい。説明書きによると、当時の建物と考えられている姿に、釘を使わずに復元したそうです。復元された建物の写真を添付していますので、ご覧下さい。こうした山城が、信玄支配下の要所に築かれていたのです。
ここへは前日宿泊したホテルに近い飯田駅から飯田線に乗って南下し、向市場駅で降りてやって来ました。下山してから名古屋に向かうための豊橋行きの電車を待っていると、目の前を豊橋行きの快速が通過して行きました。あれっと思って帰宅してから調べたら、一つ飯田駅寄りの水窪駅に停まった快速がここを通過していったのです。こんなローカル線で快速とは、と岩手の鈍行列車と同じ感覚で考えていたのが間違いの元でした。青春18切符での行動ですので、引き返しても問題はありませんでした。その少し前にやって来た飯田駅方面に戻る列車に乗って引き返していたら、一足早く豊橋に着いていました。以後、リサーチでは先入観を捨てる、という教訓を得ました。
漸くやって来た電車が山間を縫って本長篠駅に着くと、暫く停車することになったので、カメラを手にホームに出ました。見上げると、以前訪れた長篠城包囲の武田軍が築いた陣跡が見えました。講談「一心太助」でお馴染みの大久保彦左衛門が、ことあるごとに言い出す鳶の巣文殊山の戦いとは、ここをめぐる戦いのことです。
設楽が原で信長・家康連合軍が武田軍の攻撃を受けていた時、突然、鳶の巣山に煙が立ち喚声が上がりました。長篠城を包囲していた武田軍陣地の一画が落ちたことを、戦場にいた全ての者が目撃しました。後詰(長篠城の包囲を解くための戦い)に来た連合軍に攻めかかっている筈の武田軍が、今度は後方の城方と前面の連合軍から挟み撃ちされる状況に陥ったのです。これを見て連合軍の士気が一挙に上がったことは言うまでもありません。
このこともあって、武田軍の攻撃力は次第に鈍り、劣勢が明らかになって来ました。慎重な重臣の一人は、退却を進言しますが、大勢は更に攻撃することを主張します。ここで退却しても、追撃戦を受けることになって、大損害を出すことが分かっていたからです。戦いは後戻りできないまでに進んでいたのです。勝頼は更なる攻撃を命じますが、形勢を逆転させることは出来ません。力尽きた武田軍が戦場を逃走し始めると、文字通り追い討ちを掛けられ、壊滅的な損害を被ることになりました。
この鳶の巣山の攻撃に参加した大久保彦左衛門ですが、彦左衛門とは通称で徳川家旗本の大久保忠教のこと。長篠の戦いの時は満15歳、初陣だったかもしれません。
▲高根城城門
▲高根城から望む向市場の家並
▲高根城から望む向市場の街並
▲高根城城門を内側から見る
▲高根城二重堀切を望む
▲高根城のある山を背景に筆者
▲高根城大手口
▲高根城物見櫓