博打を打てなかった柴田勝家の無念 賤ヶ岳の戦い
信長亡き後の織田家家中の跡目争いの最終章となったのが、秀吉と勝家が直接対決した賤ヶ岳の戦いでした。この時、余呉湖の北で北国街道を遮断するように、両側の山上を結んで長城とも言える築城をした秀吉に対して、勝家も同様に、その更に北で北国街道を遮断する陣地を構築して、その両側の山上にも陣を築きました。その時、勝家の本陣となったのが、玄蕃尾城でした。位置としては、北国街道の隘路、長浜市柳ケ瀬から左に折れて、敦賀に向かう峠道の最高所にあり、滋賀県長浜市と福井県敦賀市の境目にあります。
俗に織豊系城郭と言われるお城は、信長が初めて天守閣を設けた安土城を始まりとして、信長、秀吉、その配下の武将たちによって作られた城の総称です。見せる城として造られた安土城を発展させ、更に金箔瓦と黒塗り壁を対比させた華麗な城として集大成させたのが秀吉です。その一方で、石垣を用いずに、この時代の築城技術の粋を結集して作られたのが玄蕃尾城でした。勿論、野戦築城の城であったために、石垣は用いられていません。
米原駅で北陸本線に乗り換えて、北上するバスに乗るために木ノ本駅で降りました。北陸本線はここから左に曲がって余呉湖の北を過ぎた後、長いトンネルを抜けて敦賀に向かいますが、1964年までは、木ノ本駅からまっすぐ北上してから左折して敦賀に向かっていました。北国街道から分かれる柳ケ瀬には駅がありました。旧北陸本線の線路跡は国道となり、北陸自動車道もこの線に沿って作られていますが、難工事だったと伝わっています。
柳ケ瀬で北国街道から分かれる道は、鉄道が通るまで街道として使われていただけにそれほど狭いものではなく、随所に昔日の街道という趣が残っていました。いつもの山城訪問と違って、らくらくと道を登り切ったところで城跡に通じる分岐点に辿り着き、勇躍城跡に入りました。すると視界の隅で、ウリボウが数匹、さっと走るのを目撃。急ぎ親猪に対する応戦態勢に入って身構えました(早い話がどうやって逃げるかの算段)。しかし、運よくウリボウもウリボウの保護者も現れず、親子共々立ち去ってくれました。
この城も、武将の格によって手の込んだ野戦築城をする好例でした。玄蕃尾城は以前からあった城を整備したものですが、新たに三方に馬出と枡形を持つ虎口を設けており、手の込んだ作りのまま今日に残されました。2階程度の櫓もあったのではないか、と研究者は類推しています。土で出来た織豊系城郭として国指定の史跡に指定されています。
この戦いは御存じのように、秀吉が主力部隊を率いて陣地から立ち去って大垣城に攻めかかったことを知った勝家が、佐久間盛政の進言をいれて、盛政に秀吉の最前線の後方にあった余呉湖を見下ろす第2線陣地である山を奪取させます。秀吉は手薄な部隊しか配置に就けていなかったために、簡単に取られてしまいました。秀吉の油断でした。佐久間盛政は、そこで打撃を与えたら、すぐに撤退するように勝家から指示を受けていたのですが、ここから秀吉の陣を急襲すると、秀吉の陣が壊滅することは目に見えていました。眼下は、秀吉の最前線の後方なのです。勝家軍主力と同時に攻めかかれば、挟み撃ちによって簡単に落ちたでしょう。そのために、勝家の指示に反して、盛政は色気を出して、拠点にしようと長居してしまったのです。
ここで勝家が賭けに出て、盛政の奇襲成功を確信して、北国街道に展開している主力部隊を南下させたら、秀吉方の最前線は挟撃されて壊滅していた筈です。しかし、勝家は盛政が戻って来るのを待つことにしました。博打を打たない性格だったのではないでしょうか。それで運は秀吉に傾きました。秀吉は、急ぎ軍勢を余呉湖方面に反転させたのですが、その動きを勝家は知りません。
全速力で引き返して来た秀吉方に、盛政は急襲されてしまいます。慌てて逃げる軍勢に反撃する余裕はありません。秀吉勢は尾根伝いに一気に追撃し、勝家の陣を見下ろす山城まで奪ってしまいます。その勢いのまま山を下って、勝家の陣に横合いから突入しました。これで勝家方の陣は簡単に崩壊してしまいます。勝家は居城北の庄城までの間に、なんの抵抗ラインも設けていません。前線崩壊の四日後には秀吉が見守る中、勝家はお市の方と共に城内で自害することになります。玄蕃尾城は前線の司令部としての機能しかなく、大軍を防ぐことも出来ずに、秀吉の軍勢に踏み荒らされたものと思われます。勝家は、軍勢が正面からぶつかる戦いでは武勇を発揮出来ても、勝機を瞬時に読んで賭けに出る器量と才覚、いってみれば博才はなかったと思われます。あえない最期でした。
城内の見学を終えて下山を始めると雨が降り出ましたが、まもなく上がりました。帰りのバスが来るまで、柳ケ瀬の集落を散策しましたが、通りには明治天皇の行幸記念碑があり、趣ある家並に時代の流れを感じました。視線を向けると、さきほど登った玄蕃尾城が見えていました。待っているバス停は、屋根のあるちょっとした大きさのものであり、旧駅舎といわれています。
米原に戻った後、まっすぐ名古屋に帰ったのでは勿体ないと思って、途中下車して大垣城を訪れました。しかし、天守閣は戦災で焼失し、博物館として造られた模擬天守があるだけでしたので、館内に入ることもなく城域を見学しただけで駅に戻りました。名古屋のホテルに戻ったところで、その夜は学生時代の同期と久しぶりに飲み交わしました。同期の桜とは、いつ会っても話が尽きることはありませんでした。
▲玄蕃尾城 柳ケ瀬の家並
▲敦賀への分岐点
▲玄蕃尾城本丸の土塁
▲玄蕃尾城本丸虎口
▲玄蕃尾城へ向かう敦賀への旧街道
▲玄蕃尾城東馬出し
▲▲余呉駅から賤ヶ岳を望む
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