直江兼続の蹉跌 北の関ケ原合戦
▲長谷堂城から上杉勢の陣と山形市内を望む
▲長谷堂城全景
三成と家康が対決した関ヶ原の戦いが行われた前後、北の関ヶ原合戦と呼ばれる戦いが山形であったことは御存知でしょうか?
秀吉亡き後、五大老筆頭として政権を牛耳っていた家康は、上洛の命を拒むどころか、直江兼続の筆になる家康非難の手紙、世に言う直江状に激怒して、上杉に謀叛の疑いありとの口実を設けて、討伐軍を起こしました。この時、上杉景勝は水戸の佐竹義宣と諮って、南北からこの軍勢を挟撃する態勢を取っていました。真壁市の中央、盆地の真ん中に造られた巨大な平城真壁城は、その時に義宣が整備した城です。
上杉軍もまた、白河の南にある皮籠原に、奥州街道を遮断するように長城と空堀から成る強力な陣地を作って待ち構えていました。西軍が街道を下って来ると、土地が狭いために、態勢を整えることも出来ないままに戦闘に入らざるを得ない地形になっています。しかし、家康率いる主力が近づいた刹那、三成挙兵の知らせが入り、家康率いる軍勢は反転します。兼続には東軍追撃の理由がありませんから、これから始まる乱世の再来を確信して、居城米沢城から東軍に属する最上義光の山形城に向かう進撃の準備を始めました。これが、北の関ヶ原合戦と呼ばれる戦いの始まりです。
米沢にある山形大学工学部(その前身である旧制米沢高等工業学校本館(ルネサンス様式の木造2階建て)は、明治43年に建てられたもので国の重要文化財)に出かける仕事が生じ、用事を済ませたところで、そのまま戻ったのでは勿体ないといつものように思い、北の関ヶ原合戦のハイライトとなった長谷堂城を見て来ることにしました。長谷堂城は米沢から山越えして山形盆地に降りてすぐの所にあり、奥羽本線蔵王駅から直線にして西北西約3Kmの所に位置しています。蔵王駅に降りたところで、スーツ姿のまま、いつもの通勤スタイルで長谷堂城を目指しました。帰郷するまで都内で働いていた時は、10年間、毎朝6~9Km歩いて事務所に入っていたので、通勤の延長といった手頃な距離でした。
三成と家康の角逐が表面化すると、家康に従っている義光は、米沢領と接する国境の警備を強化します。しかし上杉の軍勢は、秀吉政権の大老である景勝が所有する120万石に加えて、兼続が秀吉から直に貰った20万石があり、兵は併せて約3万8千、一方24万石の義光には7千の兵しかなく、その力関係は歴然としていました。しかも、上杉領は、最上領に分断される形で庄内地方に飛び地もあったことから、最上義光は兵を分散配置させなければなりませんでした。
直江兼続は上杉景勝を生涯支えた重臣で、その優秀さに目をつけた、人たらしの秀吉は、景勝の家来でいるより、秀吉に仕える大名にならないかとさえ誘っています。勿論、その真意は上杉景勝の力を削ぐことですから、当然のように断っています。そのような兼続ですが、長谷堂城での指揮振りを見る限り、武将としての能力、資質は際立つものではありません。兼続の能力を正確に見抜いていた秀吉が欲しかったのは、三成と同様、参謀としての知略だったかもしれません。
長谷堂城は、城の南から東に流れる本沢川を内堀として、往時、城の周りの麓は深い空堀と掘って出た土を盛り上げた高い土塁に囲まれていました。400年の時の流れが、この空堀と土塁を消し去りましたが、現在、この空掘が麓の公園に部分的に復元されています。しかしどう見ても観光用で、とても軍勢を防げるとは見えない代物です。
合戦では、この高い土塁と深い空堀が役立ちました。城は瓢箪の形をしていて、頂上に築かれた本丸の周囲には高い切岸が設けられ、登る道は左右から攻撃できる横矢掛りという構造になっています。本丸からは、兼続が本陣を置いた小高い山が眼下に見え、その動きは手に取るように分かる距離です。また遠く山形市内に建つビル群も見えます。この城が落ちれば、義光がいる山形城まで、何も遮るものはなかったのです。
直江兼続が率いる2万の軍勢が国境の城を簡単に撃破して、長谷堂城を取り囲んだ時、城には1千の守兵しかいませんでした。その差は20倍、籠城戦の常識では、その落城は時間の問題と思われました。奇しくも丁度この日、関ヶ原では東西両軍が激突しました。
兼続は、圧倒的な兵力差を背景に力攻めしますが、落とすことが出来ません。しかも、夜半に城から逆襲を掛けられ、それを追撃したところで伏兵に鉄砲を浴びせられてしまう、という絵に描いたような失態を演じています。その後の力攻も功を奏しません。そうこうしているうちに、援軍の伊達勢が後詰(籠城している城を救援する軍勢)として現れたこともあって、戦線は膠着します。
そして、長谷堂城を囲んで2週間経った時、漸く関ヶ原で西軍が大敗したとの知らせがもたらされます。兼続は退くしかありません。山形城に籠っていた義光は、ここぞとばかりに撤退する上杉勢を追撃しますが、大きな痛手を与えることが出来ずに終わっています。追撃戦での全滅の危機を回避した兼続の采配が評価されていますが、長谷堂城攻めの稚拙な指揮を見る限り、武将としての能力を無条件に讃える事には抵抗を感じます。
関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は所領を全て没収された上で、米沢に押し込められる形で処分が決まりました。それまでの家来全てを連れて行き、各々の石高に応じて禄を引き下げて、全員を召し抱えたのですが、それが困窮の始まりであったことは、火を見るより明らかでした。兼続はその打開のために殖産と開墾を進めて景勝の治世を支えますが、死後、家康に楯突いた張本人とされて、その名を口にすることさえ憚られる時代があったと言われています。
関が原合戦後、兼続は家康の重臣本多正信の次男を婿養子にとって、徳川家との融和を図ります。上杉家の治世が安定したところで、彼は円満に養子縁組を解消していますが、本多家との友誼はずっと続きます。ただ、兼続の意思で、直江の家はそれから養子も取らずに断絶しています。謙信が武名を高めた上杉家を、ここまで貶めてしまったことへの、彼なりの自分が下した処分だったと思います。
▲長谷堂城から山形市内を望む
▲長谷堂城本丸の切岸
▲長谷堂城から兼続の陣を望む
▲長谷堂城本丸に続く鞍部
▲長谷堂城を本沢川から見上げる