会津若松城の死命を制した城 戊辰戦争
▲小田山から会津若松城を望む
大河ドラマ「八重の桜」で一躍有名になった会津若松城ですが、CGによる特撮でも見られたように多数の砲弾が本丸に撃ち込まれたことで、城方は降伏に踏み切ったと言われています。当時、双方が使った大砲は同じ四斤砲(四斤(約4Kg)の砲弾を発射出来た)で、最大射程は2600mありました。しかし、最大射程で撃ったとしても、正確に命中させることは出来ません。無線通信のない時代、目標は目測で算定し、着弾を確かめながら発射諸元を変えて砲撃する方法が取られました。そこで反幕府軍が砲台として目を付けたのが、城の南東にある小田山でした。会津若松城まで、直線で1500mしかありません。小田山城と言われるのは、以前に城として使われたことがあったからですが、その時はただの山でした。
日露戦争で、旅順を囲んだ日本軍は、港内を十分に射撃できる射程の28センチ砲(日本本土で沿岸防備用として配備されていた大砲の転用)を持ちながら、当初停泊しているロシア太平洋艦隊を撃沈させることは出来ませんでした。やみくもに撃つしかないからです。激戦の末に203高地を奪い取った時、そこから港内は一望の下でした。既に有線による通信手段が確立されていましたので、直ちに設けられた観測所からの指示による砲撃で、ロシア太平洋艦隊は簡単に鉄屑になってしまいました。後は、ただ旅順を包囲すれば良い訳で、海軍はすぐに沖合から国内に戻り、艦艇の修理・整備に入りました。既にペテルスブルクを出港したバルチック艦隊は、日本目指して進んでおり、艦艇の修理・整備は目下の急務だったのです。整備が終わったところで、連合艦隊は訓練をしながらバルチック艦隊を待ちました。
会津若松を訪れたのは、「八重の桜」が放映される前年でしたので、町中には、まだ新島八重の肖像が刷り込まれた幟がはためいているだけで、大勢の観光客が押し寄せるという状況ではありませんでした。お陰で予約なしで早い者勝ちで借りることになっているレンタサイクルに乗って見学を始めました。
あちこちを見た後、小田山の上り口に着き、山頂を見上げました。若干の逡巡の後、平地しか走っていなかったので体力が温存されており、しかも道は狭くはなかったので帰りはペダルを踏まずに降りて来られると甘い判断をして、自転車を押して砲台のある山頂を目指しました。比高差は120mしかなかった(もあった)と後で分かりました。ただ当初の目論見と違って、道は砂利が敷き詰められていてタイヤは滑り易く、とても安全に降りられる状況ではありませんでした。
登る途中、柴五郎の墓所を示す案内板を見つけて、思わず彼も戊辰戦争での無念を晴らすために生きた会津人だったことを思い出しました。柴五郎はハリウッド映画「北京の55日」にも登場する実在の有名人で、故伊丹十三が演じて、主演のチャールトン・ヘストンと良い絡みあいをしていました。彼は義和団事変に際して、北京に駐屯していた諸外国軍の中で最大の兵力である日本軍を率いた陸軍中佐で、義和団とそれを支援した清朝相手に戦い抜くことになります。
その人柄と能力に惚れ込んだ北京駐在の英国公使から絶賛されて、戦後イギリスをはじめとして、各国から勲章を授与されています。北京駐在の日本軍の規律の素晴らしさは欧米に知れ渡り、不平等条約の改正、日英同盟へと発展したのは、柴中佐の指揮統率の賜物だったのです。その後、陸軍部内で中国通として出世を続け、最後は大将となっています。大東亜戦争終結の年の9月、自刃を図ろうとして果たせませんでしたが、その年の暮れ、その傷がもとで亡くなっています。享年85歳、最期まで武人でした。
頂上に近づいたところで、最初の砲台跡を見つけました。そこから会津若松城は、一望の下でした。確かにここからなら直接照準をして、着弾を確かめながら正確な砲撃を続けることが出来ます。会津戦争敗戦後、この場所を反幕府軍に教えたとして一人の藩士が斬殺されていますが、並みの砲兵指揮官なら、誰でもこの山の戦略的位置に気付きます。
会津若松城は、14世紀に葦名氏が黒川館として築き、その後、伊達政宗、蒲生氏郷等が入っていますが、寛永20(1643)に家光の庶弟保科正之が入国して、以後この家系が続いて戊辰戦争を迎えています。家光に忠誠を尽くした正之の教えが受け継がれて会津戦争に至ったのですが、時の藩主松平容保は、水戸徳川家の血筋を引いているとはいえ、美濃の高須藩から入って来た養子でした。それ故に、頑なに保科正之の遺訓を意識していた可能性があります。
しかし、それよりも、京都守護職就任以来、幕府側の矢面に立って働いて来たために、会津藩が降伏すると容保に重い処罰が下されることを、臣下の者が懸念して抗戦に踏み切った可能性があります。一方、江戸が無血開城されて、武力で徳川政権を倒す機会を失った反幕府軍にとって、会津藩の抗戦決定は望むところだったのです。革命家の西郷隆盛は、維新の勝利を印象づけるために血祭りにあげる生贄が必要であることを知っていたのです。
当日、飯盛山も訪れました。白虎隊の悲劇が伝わっていますが、あれは空腹と疲労で困憊していた上に、睡眠不足になっていた子供たちが、城から上がる煙を見て集団パニックを起こした末の集団自決でした。付添の大人とはぐれなければ、起こらなかった悲劇なのです。
もう一つ訪れたのが、会津若松城の北西3Kmの阿賀川に近い水田の中にある神指城跡です。この城は、越後から会津若松に120万石で移って来た上杉景勝が、新たな居城にしようとして築城を始めたものの、関ヶ原の敗戦により築城途上で廃城となっています。その後徹底的に破壊されただけに、現在は水田の中に、ちょっとした藪としか言いようのない本丸跡と、石垣の四隅のうちの二つだけが崩れかかって残っています。完成していたら、会津若松城を遥かに凌ぐ大きさになっていました。景勝と兼続の志半ばの残滓だけに、胸に残るものがありました。因みに、北西の隅には、高瀬の大木と名付けられた大きなケヤキが生い茂っていますし、城の南西隅に相当する微高地では、会津戦争時、戦闘に疲れた新撰組の部隊が休んでいるところを反幕府軍に急襲されて壊滅的な打撃を受けています。
▲小田山城に残る砲台後
▲神指城跡に立つ高瀬の大木
▲飯盛山から望む会津若松城