石田三成の誤算VS徳川家康の誤算
▲松尾山城から望む関ケ原戦場
その1
某年春、広島での同窓会に参加して同期の桜と40年ぶりに再会して今生の別れをした後、気分を切り替えて、帰りは毎年恒例の城巡りをすることにしました。その時のメインは、何度も新幹線の窓から見るだけで、降り立つことのなかった関ヶ原古戦場の探訪、そして戦いの帰趨を決した松尾山城に登ることでした。
映画やドラマで再現される関ヶ原の合戦は、駆け寄って来た両軍がぶつかって戦うシーンから始まりますが、実際の戦闘は攻め寄せて来た東軍が、西軍の野戦陣地に攻めかかって始まりました。国土地理院が出している2万5千分の1地図にもはっきりと、西軍が陣地とした天満山の前に「開戦地」と印刷されています。
西軍は、陣の前を深く掘り下げて空堀を作り、掘った土を盛り土して土塁にし、その上に柵を立てた陣地で東軍を待ち構えていたのです。陣地に籠って東軍の攻勢がピークに達するまで持ち堪え、東軍が予備兵力も使い果たした頃を見計らって、一気に陣を出て前線を崩した後、追撃戦によって東軍を壊滅させよう、と石田三成は画策したのです。この戦法によって、信長は設楽が原で武田軍に壊滅的な打撃を与えているのです。
関ヶ原の合戦では、戦いに参加しないで静観する西軍武将が多くいたために、戦っている西軍は戦線を持ち堪えるのが精一杯でした。松尾山城から小早川秀秋が攻めて来なければ、西軍は負けなかっただけでなく、戦火が一旦やんだ可能性は否定できないのです。そういった意味で三成には誤算がありましたが、家康にも大きな誤算がありました。
関ヶ原合戦の朝、戦場は朝もやに包まれていました。その前日、東軍が西に向かうのを察知した三成は、急ぎ大垣城を出て東軍の西上を阻止するために、大きく迂回して関ヶ原に布陣しました。しかし、それは三成には想定内の行動だったようです。用意周到で優秀な兵站参謀である三成は、関ヶ原が戦いになった場合まで見越して、ここに強力な野戦陣地を作らせていたのです。
東軍が喚声を上げて攻めて行くのを見てほくそ笑んだ家康が、朝もやが晴れた先に見たものは、野戦陣地に攻めかかっている東軍の姿でした。罠に嵌ったと知った家康は、愕然としたことでしょう。得意の野戦に西軍を引き込んだつもりが、気が付くと東軍は野戦築城された陣地を城攻めさせられているのです。それは自身が参加した設楽が原の戦いの再現であり、しかも今回東軍に割当てられた役割は武田軍なのです。家康は、設楽が原で大敗北を喫した武田勝頼の二の舞になろうとしていたのです。
城攻めは守る側の3倍以上の兵力が必要と言われていますが、家康にはここにそれだけの軍勢はありません。策略によって、三成憎しで戦わせている秀吉恩顧の大名の忠誠度は確実なものではなく、間違いなく当てに出来る徳川勢主力は、未だ美濃に向けて中山道を移動中だったのです。苦境に陥ったことを知った家康は、内通の内意を得ていた小早川秀秋が、いつまでも松尾山城にいることに焦りを覚えたのは当然でした。小早川秀秋の裏切りしか、家康の窮地を救う道はないと分かったのです。
関ヶ原探訪の計画を立てるために色々と調べると、あれも見たいこれも見たいということになってレンタルサイクルを借りることにしました。当日、東は戦場の端にある家康の最初の陣地から、西は激戦地となった西軍陣地だけでなく、更にその後方、西軍の第2線陣地まで走り回りました。第2線陣地とは、西軍が東軍を迎え撃った笹尾山と天満山を結ぶ線の陣地が崩れた場合でも、その後方、京に続く谷を走る道の両側に三成が作らせていた陣地です。
もし、三成が笹尾山と天満山を結ぶ線ではなくて、ここまで下がって布陣していたら、家康は攻撃を思い留まった可能性が極めて大きいのです。ここは同じ野戦陣地でも山の斜面を利用したもので、ほぼ山城に匹敵します。そこを攻める戦いは家康得意の野戦ではないのです。しかし、現実には西軍は前線の横合いを小早川秀秋の攻撃を受けて一挙に崩壊し、第2線陣地の間を走る道は敗走する兵士であふれかえり、全く機能しませんでした。
古戦場の目ぼしい所を回ったところで、もう昼を過ぎていました。更に時間を掛ければ、松尾山城まで行けないこともなかったのですが、翌日は出勤することになっていたことを言い訳に、残念ながら見学は断念しました。関ヶ原は予想以上に広く、しかも真ん中を抉るように流れている藤古川のために結構起伏があり、上り下りを繰り返して体力を消耗していました。
▲松尾山城全景
その2
次の夏の城郭探訪の最終日、松尾山城に登るために、再び関ヶ原駅に降りました。駅から本丸までは片道約4Km、比高差は170mですのでちょっとしたトレッキングです。これではやはり、前年の行動で見に行っていたら、バイクとランのバイアスロンになってしまい、老体には過酷な運動になっていた筈です。前回の登頂断念は正解でした。今回は単品見学でしたが、時季は真夏、炎天下ひたすら山頂を目指しました。
秀吉の死後、家康と三成の対立が短期間で終わると思っていた武将は、当時、誰一人としていませんでした。智謀家の真田昌幸でさえ対立は長引くと読み、その間に甲州と信州を奪い取ろうとさえしていたのです。当時の武将たちには、信長死後に、秀吉と家康が半年以上に亘って抗争し、その間に秀吉が家康に負けた小牧・長久手の戦いの記憶があったのです。天下分け目の関ヶ原とは、後世生まれた言葉です。長期戦を想定した石田三成が、西軍の総大将毛利輝元の陣として整備させたのが、関ヶ原を眼下に見渡す松尾山城でした。元々は在地豪族が築いた城で、急ぎ手を加えさせたのです。その結果、武将の格によって手の込んだ作りをする野戦築城の例として、後世に残りました。
合戦場に現れた小早川勢は、勝手に松尾山城に登って三成が置いていた守備陣を追い出します。三成が怒って下山させようとしますが、下りようとはしません。そのことが結果的に関ヶ原合戦の帰趨を決したのですが、そこに布陣した理由、あるいは進言した者は、今でも不明です。
曲がりくねった道を登って松尾山城の帯廓を見ながら本丸に着くと、関ヶ原は一望の下にありました。本丸にはしっかりとした枡形虎口が設けられていただけでなく、土塁も廻らされており、本格的な構えの城であることが分かりました。しかも、本丸を取り囲むように配置された廓は、大軍を収容出来るように広い削平地となっていました。秀吉の全国統一を下支えした兵站参謀としての三成の面目躍如というところです。
このように傑出した能力を持っていた三成でしたが、実戦経験が少ないことで戦場での駆け引きには精通していませんでした。それ以上にエリート官僚であるが故に、欺いてでも敵に勝とうというしたたかさを持ち合わせていません。そのようなことを、三成に出来る筈も、やりたいとも思わないのです。
上杉討伐に向かった武将たちは、その主力を率いていますので、東海道に連なっている空っぽの城を攻め取ることは容易だった筈です。もしそうなっていたら、家康は江戸から西に進むことが出来ず、関ヶ原に進軍できませんでした。よしんば、緒戦でそれが出来なかったとしても、その次の手段として、秀頼の出陣を許さない淀殿を欺いて、偽の千成瓢箪を作って関ヶ原に翻させていたとしたら、東軍に属する秀吉恩顧の大名は三成を毛嫌いしていたとしても、西軍陣地への突撃は間違いなく断念し、後方にいる家康に遠慮して陣を引き払った筈です。家康に手持ちの軍勢はなく、すごすごと去って行く秀吉恩顧の大名を見送るしかありません。こうなっていたら、徳川秀忠率いる徳川軍主力を戦闘に参加させなかった真田昌幸は、思いのままの恩賞を貰った筈です。三成はそれを見届けて西軍勝利を淀殿に報告し、それを聞いて淀殿の許しを得て、秀頼に来て貰えれば良かったのです。千成瓢箪偽造についても、三成は知恵者と評判になっただけで終わったことでしょう。しかしそこまで読めていても、三成は策謀を好まない男でした。謀略によって得られる勝利は、三成のプライドが許さなかったのです。関ヶ原の戦いは、エリート官僚が練りに練った戦略によって進められましたが、実行段階で破綻したのです。
因みに、戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで反幕府軍陣地に翻った錦の御旗は、岩倉具視が許しを得ずに作った偽物です。しかし、これを見た幕府軍は、たちまち戦意を喪失してしまいました。正に勝てば官軍、これで反幕府軍は官軍となりました。勿論、岩倉具視が罰せられることはありませんでした。孫子が残した「兵は詭道なり(戦いとはだますことだ)」という言葉は、正鵠を得ていました。
ところで、小早川秀秋がなかなか裏切らないことに業を煮やした家康が、松尾山に鉄砲を撃ち込んだというのは、全くの俗説です。この時戦場では数千丁の鉄砲がやむことなく放たれていましたし、有効射程50m最大射程でも100mの火縄銃では、松尾山の麓から撃っても秀秋の陣まで届きません。小早川秀秋は朝鮮に出兵した経験はありましたが、実際に前線で戦った記録は残っていません。18歳の若者は、家康に内応する約束をしたものの、裏切ることへの引け目から迷い続けていたのです。あるいは、西軍が勝つかもしれないと思っていたかもしれません。
しかし、眼下に見えているのは西軍陣地に攻めかかっている東軍の姿です。それが東軍の攻撃力を損耗させるための陣地戦の段階であることを、合戦経験のない若者が理解することは出来ません。目にしている合戦の動きのまま東軍優勢と見誤って、発作的に西軍への突撃を命じた可能性が大きいのです。秀秋の重臣は、主君の裏切りを、その時初めて知りました。その命令を潔しとせずに、攻撃に加わらずに戦場を離脱した重臣もいたくらいです。
但し、石田三成を支えた大谷吉継は小早川秀秋裏切りの可能性を想定して、松尾山城の真下に布陣していました。吉継は小早川勢の突然の攻撃を一旦は食い止めたのですが、その付近にいた内応していない西軍の大名までもが勝ち組になろうとして寝返ったために、戦線は崩壊してしまったのです。
挙兵から関ヶ原の合戦に至るまでの全ての戦略を三成に伝授したのは、大谷吉継だと言われています。可能性を排除していなかった小早川の裏切りでしたが、それに呼応する大名が出てしまっては戦線を支えることが出来ず、吉継は無念のうちに自刃しています。一方家康への内通なしに裏切った大名は、家康が出した内応を促す誘いを無視した廉で、勝ち組になることは出来ずに改易させられています。
▲関ヶ原の中央を流れる藤古川
▲笹尾山の石田三成の陣
▼松尾山城本郭を囲む土塁
▲関ケ原を通っている旧中山道
▲笹尾山後方の第二線陣地
▼天満山の西軍陣地
▲笹尾山から望む西軍陣地
▼松尾山城本郭の虎口
▲東軍狼煙台から西軍陣地の天満山を望む
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Ulysses Calder (金曜日, 03 2月 2017 04:00)
I quite like reading through an article that can make people think. Also, many thanks for permitting me to comment!